「ネットと愛国~在特会の「闇」を追いかけて~」 安田浩一著  講談社  1700円

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「キノピー、この本興味ある?あげるよ」

と、M尾さんに頂いた本である。


興味ないわけありません(笑)。



毎日読んでいる新聞は東京新聞なのだが、大久保で行われている「ヘイトスピーチ」に関しての記事を興味深く読んでいた。

大久保などはよく食材買出しで行っていたところだ。

韓国人だけでなく、インド人、タイ人やとにかくいろんな国の人達がこんな狭い地域で本当にたくましく生きている姿は、僕には羨ましくさえ思えるほどの場所なのである。

15年前くらい、コロンビア人の娼婦達が仕事をはけたあと、朝方小さな店の急造ダンスフロアで大音量で自国のダンスミュージック「クンビア」を浴びながら腰をくねらせている姿は圧倒的であった。


日頃「大衆音楽とは何ぞや?」などと、中村とうようよろしく音楽を通した社会勉強をしている身としては(笑)、最高に刺激的なスポットであった。


最近では「嫌韓」なるものもマスコミ主導であるらしいが、

誤解を恐れずに言えば、異文化に対する排他思想というのは、人間本来どこかに必ずあるわけで

それを超えてすぐに博愛などになれるわけでもなく

ただそういうものを受け入れたり、興味を持ったりするのは人それぞれのきっかけがあったり、過去、現在を「学ぶ」ことでステレオタイプ的見方から抜けて、文化の背景を持ったその人個人に向き合えるものだと思っている。


勝手に「単一民族」だと思い込んでいる日本では、

異文化が生活の中に入り込んできた時に嫌悪感を持つ人は当然いるのだろうが

(それがいい悪いと言っているわけではありません)

それでもここまで大きな動きになるのはなんでだろ?って思っていた。


そんな時に出会えた本であります。


筆者は「在特会」についてそんな疑問を徹底的なリサーチで書いた。



在特会に対してはここではあまり触れませんが、


初めてyoutubeで京都の公園デモ等の映像を見ましたが吐き気がしました。

対象を極めて限定して、そこを徹底的に縛り上げる。

どこぞかの大阪市長とやり方は一緒。

そこに知性も品位のかけらもない。


「右」とか「左」とか

あんましそういうのは僕は関係なくて

それは個人の思想であるので。

それに賛同するかしないかの問題です。


僕の世代(もうすぐ50才)より上は有楽町駅前での極右のある意味象徴、赤尾敏さんの「辻説法」演説(毎日やってた)を見る機会があった年代である。

言っていることはともかく

その姿勢には品格がありましたよ。

と見たことのない方にはお伝えしておきます。



在特会がなぜにここまで大きな「社会現象」になったのか。


筆者はそれを「ネット社会」と繋げて考察している。

「この大きなうねりはネットなくしてはありえない」と。

そこがこの本を読んで「なるほどな」と思ったポイントでした。


僕もインターネットは頻繁に使います。

事実、こうやってブログやっているし(笑)。

調べものするのには、それはもう重宝しております。

そして何かを「発信」する立場としてはこれほど便利かつ有効なものはない。


使い始めて約20年経つが、それでも全面的に信用できるメディアではなく

あくまでも割り切って使ってます。


それはやはり「匿名性」が強いから。


文責が軽いが故にそれ自体をすぐに信用できない、というスタンスで向き合っている。

でも、最近はどうにもそうでないらしく


そこがものすごくひっかかっている。


ネットの場合、情報収集は自分が興味があるもの、そして自分の考えに対して「YES」のものを無意識に選択していると思う。

「NO」に対しては、クリックしない

もしくは反論を唱えるが、それだってあくまで2次元画面上のものであるから、相手の物理的な顔色はわからない。だから好き勝手なことが書ける。

新聞のよいところは、たとえ興味がある文章しか読まなかったとしても、ペラペラと一面からめくっていくと満遍なく全ジャンルの見出しだけは頭に残るということだと思ってる。

それは社会でのバランスを取るためにはある意味大事なことなんじゃないかなと思います。


新聞読まない人が本当に多い。

「ネットである程度わかるから必要ないですよ」

とかなりの人たちがおっしゃる。



僕は呑み屋で育ててもらった人間だと思ってる。

独りで呑みに行く。

隣の知らない人と喋るきっかけができる。

同調して盛り上がる時もある。楽しい。

でもそうでない時も結構ある。

その場の雰囲気を壊したくないので(店にも迷惑がかかりますから)、「あ、違うな」と思ったら相手の顔色、しぐさ、間合いを気にする。

時として面倒くさいけど、聞き役に徹することもある。

相手の間合いと雰囲気を見て、「こういう言い方だったら自分の考えを聞いてくれるかな?」と建設的に考える。

一方的な人には、散々我慢するが(笑)、いよいよ覚悟を決めるときもある。


まぁ、そういう「顔が見える」やりとりで、ある程度相手の気持ちを察して接するというコミュニケーションの最低限のルールを学んだ気がします。


たくさんの失敗が人間を成長させている、と信じたい。

でも最近は、その最低限と僕が思っていた前提が


15年前くらいからなくなってきているような気がするんですよ。


これはもう肌感覚なんだけれど。


ちょっと怖いなぁ・・・・って思ってます。


呑み屋のオヤジとして本当に危惧してます。


若いやつらが駄目だといっているわけではありません。

僕より上の世代でも、駄目な方々は腐るほどいます。今にも名前を出したいくらいです(笑)。

僕だって駄目だと思いますよ。


でもその「駄目」な本質が変わってきている気がするんですよね。


そんなことをこの本を読んだ後

なんだか、なんとなく

「まぁそういうことなのかなぁ?」

と感じた次第です。


わかってもらえるかな、この文章・・・・・・・