脳みそと記憶と絵

結局、熊谷守一展には3回行った。
 
 
1回目は全体をくまなく確認。
 
福岡史朗と行った2回目はより近い位置から筆の感触を堪能。
 
3回目は逆に10メートルくらい離れて俯瞰で観ることを意識した。
 
 
個展に何度も足を運ぶというのは人生で初めてだ。
 
僕は絵というものに全然明るくないのだが嫌いではない。
 
 
熊谷守一という人物に何故だか引っ掛かってしまい、彼の絵はそれこそ
愛して接しているのだが、
それ以外の美術についてははっきり言って素人でありますが
 
 
そういう立場でもいろいろ鑑賞することによって考えることもいろいろあるわけでね。
 
 
そんなことを今回の3回の訪問を通じて考えてみたいと思った次第です。
 
 
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脳みそというものは実に不思議なものである。
 
過去に見た映像や音を脳みそは記憶していて、それを脳内で再現してくれる。
 
 
果たしてどこで再現されているのか?
 
特に視覚の再現であるが、
 
その画像が浮かぶとき、あなたが今「見ている」という行為をつかさどる
「眼」は開いているのか?
 
開いてるのである。眼を閉じてはいないでしょ?
 
それでも、実際に見ている映像とは関係なく、頭の中にはその瞬間違う画像が
流れてて、身体はそれを受け入れているのだ。
 
 
つまりその時は、脳みそは眼というものから入ってくる情報を意図的に
遮断してるのである。
 
 
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では、その思い出した画像や映像というのは、当時眼から入ってきた
情報をそのまま再現しているのであろうか?
 
 
これは個人差があるとは思うのだが、
 
多分
 
相当にデフォルメ、つまり自分の都合のいいように「加工」されてるような
気がしてる。
 
 
言い方を変えれば、画像映像における「真実」というのは、当時自分が感じた
「イメージ」が全てなのではないのかな、ということ。
 
 
イメージが優先されるということは、脳内で再生されているものはどこか
最初の情報とは違う形で表現されているものであって、
 
 
ここからは「恐らく」なのであるが
 
 
熊谷守一という画家は
 
 
自分の創作活動においてそこを最重要視したんじゃないかなと
 
 
そんな気がしてならない。
 
 
それをふと思ったのは
 
 
その3回目の鑑賞の時にすべての絵を遠くから俯瞰することで感じたのである。
 
 
最晩年の作品
 
いわゆる「熊谷守一らしさ」であるはっきりした色づかいの代表作品よりも
 
そこへの過程である淡い使いの風景画や裸婦像からそれを感じることが多かったかも。
 
 
イメージ 1

イメージ 2

眼という部位から入ってくる現実的な視覚情報から
 
彼の絵は逸脱している。
 
 
特に物と物の境目を赤系の太い線で描き始めてからが彼の絵の真骨頂なのであるが
 
 
何が何だかわからない人は多いと思う(笑)。
 
 
これを遠目から見てみると
 
 
実にフィットするのである。
 
 
というかむしろ、自分が昔観たどこかの場所というのはこんな感じだったよな、
とイメージが喚起されるのだ。
 
 
つまり一見奇抜にみえる非現実的な線と色と構図が
 
実は脳にとって一番のリアルだったいうこと。
 
 
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そんなことって美術好きな人にとったら当たり前なのかもしれないけど
 
 
僕自身としてはこれが今回の「大発見」だったわけであって(笑)。
 
 
まさかこんな感想を持つとは思わなかったので書き留めた次第です。