居場所:吉祥寺その2
大学入学を僕は単純に地元からの脱出にしか捉えてなかった。
とにかく出たかったのだ、ここを。
高校に入ってからとにかく気が狂いそうだった。
でも、首都圏の大学を選んでしまい(何やってんだか)
最初は通ってた。ま、1時間半かからないのでそうであろう。
でも、気持ちは収まらず(笑)延々と両親に懇願し、ようやくねじ伏せて
念願の東京独り暮らしが始まった。
場所は京王線の笹塚駅から南に伸びる観音通り商店街の中ほど。住所で言うと北沢5丁目。
歩くとすぐにアンティーク家具で有名な「山本商店」。
もうちょっと歩くと伊藤つかさの母校、北沢中学があった。
風呂なしトイレ共同の「ゆたか荘」という6畳一間のアパートだ。28000円が家賃。
無理やりのお願いだったので、仕送りは当時は3万円。あとはひたすらバイト。
バブル前だったので地方出身者はみんなそんな感じだったと思う。
秋葉原でテレビなどの家電を買って備え付けて最初にテレビで流れたのがあの御巣鷹山の日航事故の死亡者リスト。1985年8月12日。
レンタカーを借りて、同級生の信哉に運転をお願いして吹上から荷物を運んだ。
川越あたりでラジオから衝撃な中継が流れてた。
PL学園29-7東海大山形
最後、清原がピッチャーやってた。1985年8月14日。
そんなこんなで僕の東京生活が始まった。
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結局6年住んだ世田谷区だが
歩いて10分ちょっとの下北沢が生活のメインだった。
とにかく面白かったこの時期。
また別の機会に改めて。
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この時期の僕の吉祥寺との関りは
やはりレコード屋巡りである。
当時同じ音楽の趣味を共有してた彼女とよく漁りに行ったもんである。
中道通りの芽瑠璃堂がメイン。
ここはアーフリーやらフライライトのルイジアナスワンプものがやたら充実してた。
南口を降りて右に向かって2分くらい歩いて2階に上がったディスクインも凄かった。
ルーツ・ミュージック好きにはたまらない品ぞろえだったなぁ。
レコードを漁った後は二人でお茶とか食事とか。
彼女が高校時代から通ってた東急前の「フライングスプーン」はよく行った。
デミソースがたっぷりかかったオムライスが名物。
今は「百年」という古本屋さんが入ってるところだ。
そのビルの地下にあったタイ料理屋さん「スコータイ」も名店だったなぁ。
そして忘れてはならない場所。
南口の中古レコード屋さんの2階にあったカフェブームの原点
「ペンギンカフェ」である。
とにかく田舎者にはね
とにかくおしゃれだったなぁ(笑)
まさか
10年後にこの場所を譲り受けて
自分が店を始めるとは
これっぽっちも予想してなかった
1985年~90年くらいのお話。
この話続きます~
当時の写真、ないかなと思ってネットを探したが
唯一あったのが同じケヤキビル3階の「ペンギンカフェ2」の写真だけ。
今はどうなってんだろうな・・・・