居場所:吉祥寺その3

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無事(?)大学を卒業した僕は池袋のサンシャイン26階にあった会社に就職した。
ネットワーク系の会社である。
今から考えると「最先端」だったのかもしれないな(笑)。
平成元年入社。
規定によると初任給は198000円だったかな?
でも
最初6ヶ月間の研修期間があって
その間は7割支給だったので、実際は14,5万円だったと思う。
寮に入るという選択肢もあったんだけど
寮は二人一部屋みたいで
それは確実に無理なので
なんとか笹塚の生活を維持しようと
卒論書き終わってからひたすらバイトしてたな。半年なんとか耐えないとって。
だから僕には「卒業旅行」とか
そういう青春っぽいものは一つもなかった。
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半年の京王永山での研修を終えて
いよいよ社会人デビューをした。
この会社
とにかく「呑む」会社でね(笑)。
感覚的には週3、4で池袋で呑んでた感じがするなぁ。
「サラリーマン」
結局4年ほどやったんだけど
この時期に経験したことはかなり自分の基礎になってる気もする。
これも改めて、ね。
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とにかく呑む会社だったので
終電帰りも多くなり
風呂のないゆたか荘に住んでいた僕にとって結構キツクなってきた。
幸い終電で帰っても間に合う銭湯だったので(実は大家さん)有難かったのだが
何せこちらは酩酊して風呂に行くのである。
一度アパートに帰ってから「セット」(まぁこれは石鹸、シャンプー&リンスであるが)を風呂桶に入れて行ったら
なんと「シャンプー&リンス」じゃなくて「塩&胡椒」という時があった(笑)。
これは相当恥ずかしかったです・・・・。
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そこそこ金も貯まってきたので、いよいよ風呂つきアパート引っ越しを画策した。
選んだ場所は中央線の阿佐ヶ谷。
北口を出て、旧中杉通りの突き当り、日大2高通りを左にちょっと行った6畳&3畳のキッチン、風呂トイレ別のアパートだ。
家賃は57000円。
引っ越しは後輩の昆野君に頼んだったかな。
24~26歳までの2年間阿佐ヶ谷住民だった。
風呂があるのがこんなに素晴らしいと初めて知った(笑)。
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まだ独り呑みはしていなかった。
でも誰かがいるとよく飲みに行ってた店はある。
元茶屋さん。「ガンジャヤ」と読む。
凄い名前でしょ(笑)
まだやってれば35年以上の店だ。
最高のアメリカンロックをこよなく愛する店。
初めてのアメリカ旅行の最中に知り合った「ドラちゃん」という女の子がこの店の常連で帰国後に連れて行ってもらった。
ここのポテサラは注文してからジャガイモを茹でるのでいつも温かかった。
初めて行ったときにかかってたレコードはりヴォン・ヘルムだったなぁ。
ちょっと先にいったら「あるぽらん」。劇団関係のお客さんが多かったかな?
店が盛り上がると必ず甲斐バンドがかかるという変な店(笑)。
中央線ガード脇の「暖流」。
ここは中央線朝まで呑みをしたら未だに行くわ。
朝8時までやってる。
吉祥寺からチャリで通ってた時もあった。
そして阿佐ヶ谷といえば「バレルハウス」ですな。
店長、矢野間さんは今
駅前の集合ビルの2階で「ソウル玉東京」という店やってます。
埼玉戻ってから東京呑みに行くときに結局一番行ってるかもしれないなぁ。
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中央線に引っ越したということで
吉祥寺に行く頻度はかなり増えた。
そのくらいから吉祥寺でやるライブが増えたのもある。
高円寺の次郎吉のブルースセッションで知り合った福村さんがやってたバンドによく誘われて吉祥寺の「のろ」でライブを始めたのである。
彼がやってた当時のバンドが「万国びっくりボーイズ」というバンドで
サックスの福村さんは今、久住昌之氏と一緒にやってたり
トランペットの近ちゃんはスウィンギンズ・バッパーズで吹いてたり
ギターの秀ちゃんはブラッデスト・サクソフォンで大活躍だ。
当時自分がやってた「大黒屋」というバンドとは別に
高校の同級生の拓夫とアコースティック・デュオも始めてね。
それが出てたハコが曼荼羅だった。
ちゃんとオーディション受けて
日曜の昼間の部から始めたユニット(笑)。
そんなこんなで吉祥寺との関りが増えてきた
1990年前後のお話でありました。
また次回に。