イェイ!ボロボロだぜ、ベイベー!!!
そりゃそうだ。購入してから21年が経つ。
だからプラスチックなんてダメなのだ。古くなればただ古くなるだけだ。紙や土や鉄は違うぞ。CDという媒体の味気なさを如実にあらわす見た目ではないか、これは。
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僕が高校一年だった1981年、RCサクセションがエレクトリックバンドとして、お茶の間で大ブレイクした。
当時知識も情報もない田舎のガキには相当な衝撃を与えてくれて
81年の伝説の武道館ライブのテレビ放送を、隣のEグッチャンの家のビデオで録ってもらって、毎日観に行って
しまいにはラジカセ持ってテレビの前に置いてダビングして(またしてもエア録音)、家に帰ってそれにあわせて毎日ギターを弾いてた。
「夜のヒットスタジオ」にRCは何度か出て、ガムを吐いたり、キスをしたり物議をよんでいた。
ませはじめたガキドモには、「洋楽」が眩しく見え始め
当時オンエアされ始めた「ベストヒットUSA」もあいまって、ニューウエイブや商業パンクに心を奪われていった。
現在進行形のRCサクセションとは距離ができた。
僕のRCは3人組時代、当時これしか手に入らなかった編集盤「ハードフォークサクセション」に集約されていく。
これは呆れるくらいに聴いた。
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大学に入り、上京して笹塚の風呂なしアパートでの貧乏生活が始まった。
東京で僕はたくさんの刺激をもらった。僕のベクトルはブラック・ミュージックに向いていた。
ブルーズ、ソウル、ジャンプ、ジャイブ・・・・いくらでも古い音楽のレコードが買えた。
そんなのばっかり聴いてたら同時代の音楽などどうでもよくなった。
80年代後半~90年代初期はバブル全盛期で
そういったブラック系のミュージシャンが
今では考えられないくらい来日していて
バイト代はすべてそういうものに消えていった。
そして耳の刺激は世界中の音楽に向けられていった。
「ワールド・ミュージック」だ。
そして当時の東京で一番ヒップだったムーブメント「東京ソイソース」はまさにそういった流れのなかにあった。
「ロック」というものに全く無縁な大学生時代。
でもそんななかでもRCの存在はずっとあって
アパートではスリム・ゲイラードやウイリー・コロンをかけつつも
合間にはしっかりビートルズと「ハードフォークサクセション」は聴きまくっていたのです。
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大学4年の時、RCがにわかに話題になっていた。
キヨシローが怒り始めた。
タイマーズは久しぶりにグッときた。怒りも笑いとコインの裏表の関係であってもらいたいという素晴らしい具体例だ。
僕は就職して池袋のサンシャイン60のそばで働き始めて
そんなとき
パルコのCMでおだやかなキヨシローの声が流れ始めた。
「I LIKE YOU」だ。
RCサクセション、最後のアルバム「BABY A GO-GO」が発売された。
1990年9月。
「フォーク期」のRCを彷彿とさせるアコースティックな手触り。
またしても3人組の元のさやに戻ったRCサクセション。
迷わず僕はCDを購入した。
聴き終わったあと
「あ、これでRCは終わりだな」って思った。
まだ公式発表はされてなかったけど
それは誰の目から見ても明らかだった。
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RCのレコーディング史上、もっとも「音がイイ」アルバムがこれ。
エンジニアはヘンリー・ハーシュ&デイビッド・ドマーニッチ。当時レトロでマニアックなロック・サウンドを追及していたレニー・クラヴィッツのエンジニアである。
この音で「PLEASE」と「BLUE」が録られていたらどんなに凄かっただろうに(笑)。
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当時24歳だった。
まだ社会にでて2年目だった。
渡さんと吉祥寺の「のろ」で出会ったのもこのころだ。
社会人にはなっていたけど、
まだ「俺は大人なんかじゃない」って思ってた。
というか
そんなことなんかこれっぽっちも考えず
今やっていることに一生懸命になっていた。
だから最初にこの曲を聴いた時に
「大人ってなんだろう?年齢からいえば、俺は大人なんだよな。しっかりいろんなこと考えなくっちゃな。キヨシローもこう言っているし」
と思った。
あれから20年以上も経って
僕は45歳になった。
この曲ほど心に染みる曲はない。
いや
心に染みる曲はいくらでもあるんだけれど
自分の気持ちを前に向かせてくれる唄です。
どんなにへこんでも
「まだ出来ることはあるんじゃないか?まだまだやり切れてないはずだ」
って
この曲を聴くと
いつも勇気を与えてもらってます。
今を生き抜くために
すごく重要な唄です。
昨日はキヨシローの命日でした。
こんな曲を残してくれて本当にありがとうございます・・・・・・・