5月27日 カルメン・マキ デラシネ・ライブ@上尾プラスイレブン

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今日は一日中鳴り物のない中で生活した。
 
テレビも音楽もなんにもなし。
 
聴こえるのは近所の生活音とか鳥や虫の鳴き声とか車や新幹線が通る音。


他は必要なかった。
 
昨日の音が頭の中にこびりついていたから。
 

昨日はカルメン・マキさんのライブに行ってきた。
 
実は初めてである(マキさん、すみませんでした)。
 
前半と後半の二つの「物語」だった。
 
MC、間合いすべて含めて。
 
 
普段音楽に接するとき、「曲を聴く」という感じなのだが、
 
そんな感覚が前半の割と早めに自分の中になくなっていた。
 
視覚と聴覚の混乱が始まった。
 
ステージを観ているはずなのに、脳内で再生されている絵は物語の主人公がたたずむ海辺であったり
 
次の瞬間、「言葉」が耳に飛び込んできてその響きにドキリとしたり
 
自分が今まで経験したなかの風景
 
慣れ親しんだ大好きな荒川の土手からみる空の景色
 
桜の木の横にあった小学校の便所
 
はたまた見たことのないはずのシーンが沸き上がり
 
と思うと目の前で繰り広げられてる3人の指にくぎづけになったり
 
 
 
 
あの場にいた人の数だけそれぞれの「物語」があったんじゃないかな。
 
 
共有してたことは、あの場で目の前の3人の隙間を含めた圧倒的な音の塊」を目撃した
 
ということ。
 
 
物語=ストーリーテリングって、演劇、朗読、唄、歌舞伎、落語・・・まぁなんでもいいんだけどそういったものを通じて古来から民衆に愛されてきたもので
 
それに接することって、生活を営む上でも必要なものだったんだよな。
 
言葉は間違えてるかもしれないが「大衆芸能」ってそういうことだよな。
 
唄を曲として楽しみ、愛する
 
それはそれでいいのだけれど(当然歌の中にも物語はあるが)
 
 
形態に縛られず「物語」を紡いでいく中に身を委ねるということをもっとしなくちゃな、と。
 
普段の生活の中で忘れていたことだった。
 
しばらく小説なんてよんでないし、実は演劇も観たことない。
 
目の前で起きている世の中のとんでもないことばっかり追いかけていて
 
「感受性」という人を構成する大事なものを得る手段を「音楽」に限定しすぎてた気がします。
 
 
それを昨日の「音楽」から感じたという摩訶不思議な一日(笑)。
 
いいもの観れたなぁ。
 
マキさん、清水さん、桜井さん
 
ありがとうございました。
 
 
ちなみに原子力発電所の朗読&インプロビゼーションのマグマのような塊は
 
たまたま今、原発放射能関連の本を読んでる最中で
 
相当えぐられました。
 
言葉にはできません。。。。