From リンゴ追分 To RINGO その2 (ちょっと脱線)
さて、「りんご追分」は日本からどうやってジャマイカまで旅立ったのだろうか?
それを考察する前に少し話は脱線する。
僕の目の前でこの「りんご追分」を唄った大物アーティストがいる。
それは米国ブルース界の重鎮、ボビー’ブルー’ブランドだ。
30年ほど前なので記憶が定かでないのはお許し願いたい。
多分、1988年だったと思う。
今はなきライブ・ハウス、渋谷「LIVE INN」にブルース・シンガーの帝王、ボビー・ブランドが来たのです。ギターはあのウェイン・ベネット。
ライブは中ほどだっただろうか。
彼は「この曲は知ってるよね?」みたいなMCで突然「リンゴ追分」を唄い始めたのだ。
「なんでこの曲知ってるんだろ??」みたいな感じで、その場はびっくりしたのだが
みたいなことが
書かれていた・・・・気がするのである。
「りんご追分」がリリースされたのが1952年。で、大ヒット。
だから日本に駐留していたボビーさんがこの曲に触れているのは合ってると思う。
それでも88年来日当時から、35年くらい経ってるのにこの曲を覚えていたというのは凄いよね。
レコード、買って帰ったのかな?
でも当時はSP盤だからなぁ・・・・
もう塩化ビニールの7インチは発売されていたんだろうか??
「リンゴ追分」という曲は
ジャズと民謡の融合だ。
Aメロはマイナー・キーのジャズの要素が満載である。
デューク・エリントンのオリエンタリズムと酷似している。
Bメロはそのまま民謡臭さを残している。
歌詞でいうと「津軽娘は泣いたとさ 辛い別れを泣いたとさ」
の部分だ。
ボビーさんは40年代からのビッグ・バンド・ブルースの影響下にあるので、マイナーキーへの思いはかなりあったものと思う。
キャブ・キャロウェイとかもマイナーキー多いもんね。
5,60年代当時、日本を訪れた外人って凄く少ないと思う。
特に観光では。
ほとんどが駐留した米軍兵士だろう。
この人たちが当時日本の流行歌に興味を持ち、レコードをアメリカに持ち帰って
それが10年以上たってから海を挟んだジャマイカの一流ミュージシャンの手に渡る・・・。
んんん・・・
可能性としては限りなく低い
…気がするのです。
まだまだ続きますー。
(我が家のボビーさん。残念ながら全部再発廉価盤。学生の時に買ったものだから、とにかく安いもので沢山聴きたかったのだろうな。買い直したい欲、再燃してます。いい音で聴いてみたい。マラコ時代の傑作アルバム達は全部カセットテープで今聴けないし(涙))
ボビーさんの素晴らしいライブの一コマ。
ブルースと演歌の因果関係をいつも感じるのは私だけか???