近況報告54 失われた週末



明けましておめでとうございます。
 
今年もよろしくお願いいたします。
 
 
元旦だけ休んで、年末年始は斡旋された短期肉体労働に勤しみました。
 
坐骨神経痛が再発してもうボロボロ(涙)。
 
なんとか3日まで仕事をして、4日は休みということでさっそく日本酒を呑み始めたのですが、あっという間に寝落ち。
 
ふと気がつけば朝の5時半。
 
で、テーブルの上に残されたお酒をすすってるわけでございます(笑)。
 
「プチプチ・・」と音がしてるのはかけっぱなしになっていたレコード。
 
今年一発目のレコードはジョンの「WALLS AND BRIDGES」でした。
 
年末についついアマゾンで「ポチッ」と押して購入した写真集&エッセイ「ジョン・レノン ロスト・ウイークエンド」を眺めながらの寝落ちだったのですな。

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原題は「INSTAMATIC KARMA」。
 
 
この作者はメイ・パンさん。
 
ビートルズ好きには有名なお話ですが、知らない人のためにちょいと「失われた週末」のお話を。
 
 
ビートルズの活動に終止符を打ち、ニューヨークに移住したジョンとヨーコは
 
アメリカでの永住権確保を求めていたのですが、
 
彼らの反体制的な「平和活動」がお上には受け入れがたく、なかなか下りないでいた。
 
そんなこんなのストレスか、次第に二人の関係にも亀裂が入り
 
ついには別居する事態となった。
 
ヨーコは「ジョンは別の人と暮らすことになるだろう」と悟り、その際には「ジョンを上手く扱える人であってもらいたい」と考えます。
 
白羽の矢が立ったのが、当時ジョンとヨーコの事務所でパーソナル・アシスタントを務めていた東洋系アメリカ人のメイ・パンでした。
 
ヨーコはメイに「ジョンからのお誘いがあったら断らないように」と直々に伝えます。
 
・・・・・普通の人の感覚でいうと無茶苦茶ですが(笑)、とにかくジョンとメイの関係はLAに移って続きました。
 
73年10月から75年1月が「失われた週末」です。
 
ジョンの生前最後のインタビュー、1980年のプレイボーイ誌でもこの時期については「とにかく呑んだくれてパーティーに明け暮れた」となってますがね。
 
あんまりヨーコの前ではこの時期については触れたくないだろうし、僕らもジョンのハチャメチャな時期だと思ってたし、メイは「ヨーコが派遣したジョンの性欲処理係」という認識しかなかったのですが
 
写真というものは凄いです。
 
写真が趣味だったメイ・パンの撮ったものは、この時期のジョンの充実ぶりを見事に伝えてくれます。
 
 
ビートルズ活動停止後、ジョンが音楽的に一番アクティブだったのがこの時期なんですよね。
 
自身のアルバム「心の壁、愛の橋」「ロックン・ロール」
 
ハリー・ニルソンをプロデュースした「プッシー・キャッツ」
 
デヴィッド・ボウイ「フェイム」の共作
 
リンゴ・スター「グッドナイト・ウィーン」への参加
 
 
単なる「音楽家」としてのジョン・レノンがここに居ます。
 
 
決して「失われてない」のです。
 
 
ジョンが亡くなってもう37年過ぎました。
 
14歳で味わった「射殺」というあの衝撃は、
 
結局、僕の中で音楽とどう向き合うかという原点なのかもしれません。
 
 
 
メイ・パンが撮ったジョンの写真は
 
一目瞭然
 
どれも穏やかで、生気が満ちてます。
 
「語られる」歴史というものは
 
やはり一方的な思い入れから派生するんでしょうね。
 
いや~
 
写真っていうメディアの凄さを
 
改めて感じざるを得ないものでした。
 
 
 
 
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ビートルズ活動停止後、残された最後のジョンとポールの2ショット。






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アルバム「心の壁、愛の橋」のフォトセッション。たまらんねー!!




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アルバム「ロックン・ロール」再レコーディングのリハをするジェシエド・デイヴィス&クラウス・フォアマン




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たわむれるジョンとハリー・ニルソン







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法的に「解散」する最後の書面にサインするジョンの手を撮った写真。

いろんな意味でグッときます。





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75年再発「IMAGINE」7インチの際に使われたこの有名な写真もメイ・パンでした。







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4年ぶりに再会した前妻シンシアとの子供ジュリアンとの2ショット。

ヨーコとの衝撃的な出会いでジョンは人生の選択をするのですが、その際に残されてしまった息子のジュリアンのことを気遣ってポールが作った曲が「HEY JUDE」です。

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満面な笑みのメイ・パン。

失われてないよ、ホントに。